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平成の日本政治とは?(4完)新自由主義の席巻と民主党政権のトラウマ
2019/5/3(金) 21:20配信THE PAGE
今回は4回連載の最終回。小泉旋風から民主党政権の誕生と失敗、安倍長期政権までを振り返ります。
「自民党をぶっ壊す」社会現象になった小泉旋風
永田町で小泉純一郎が総理大臣になることを予想した人はいなかったと思う。本人もなれるとは思っていなかったに違いない。ところが小泉が田中真紀子の応援を得て自民党総裁選に出馬し「自民党をぶっ壊す!」と叫ぶと、自民党員しか参加できない選挙なのに、選挙演説カーの周りは黒山の人だかりになった。
政治のプロはみな橋本龍太郎の勝利を予想したが、大衆は小泉に熱狂した。そして大衆の熱気がそれまでの政治を大きく変える。総理大臣は重厚さが求められ、総理になれば軽々しい振る舞いはタブーだった。ところが小泉の指南役である松野頼三に言わせれば、小泉はまるで「横町のあんちゃん」である。それまでは決められたインタビューにしか応じないのが総理だったが、小泉は毎日「ぶら下がり」と称するインタビューに応じ、鼻歌まじりで記者の質問に答えた。
それがテレビのワイドショーで放送されると、政治に関心のないような主婦層にも人気が出る。お笑い芸人が政治ネタをやるようになり、政治家もお笑い番組に出演して笑いを取るようになった。小泉の登場は政治のジャンルを超え社会現象となった。日本にポピュリズム型の政治が登場した。
小泉は総理大臣になるために必要とされる財務、外務、経産の3大臣を経験していない。厚労大臣と総務大臣を経験しただけだ。私は当初、政策面で大丈夫なのかと思ったが、小泉が打ち出した「構造改革」は米国の新自由主義政策だった。
小泉政権が推進した「小さな政府」の新自由主義
新自由主義は、米国の民主党ルーズベルト大統領が大恐慌を克服するために打ち出した「ニューディール」に対抗する共和党の政策である。レーガン大統領が「レーガノミクス」として大々的に宣伝した。
「ニューディール」は、英国の経済学者ケインズの修正資本主義を基本に、国家が公共事業を行うことで経済を好転させ、また国民の福祉を手厚くする政策だ。政府の役割が大きいので「大きな政府」と言う。
これに対し新自由主義は、税金をなるべく取らず、経済は企業任せで福祉をやらない。格差が生じても個人の責任だ。平等より自由に力点が置かれ「小さな政府」と呼ばれる。
戦後日本の高度経済成長は「大きな政府」の政策で達成された。企業に自由にやらせたのではなく、政治家・官僚・財界が一体となり、落ちこぼれを出さないようにして、最も格差の少ない経済大国を作り上げた。
冷戦が終わるまで「大きな政府」は米民主党の基本政策だった。しかし冷戦後に大統領に就任したクリントンは「大きな政府の時代は終わった」と宣言し、大胆に共和党の政策に近づく。そして日本に対し「政官財の癒着」を非難し、「年次改革要望書」を通して日本型の経済構造を新自由主義的な米国型に転換するよう迫ってきた。
「55年体制」では自民党も社会党も「大きな政府」だった。しかし政権交代可能な仕組みを作らなければならなくなると、小沢一郎は1993(平成5)年に『日本改造計画』(講談社)を書いて「小さな政府」の必要性を説いた。小沢は「大きな政府」と「小さな政府」を二大政党の軸にする考えだった。
改革推進の手法、「好敵手」だった小泉と小沢
その「小さな政府」をやろうとしたのが小泉だった。英国ではサッチャー首相が先に実行し、国営事業の民営化や規制緩和を行った。「英国病」と呼ばれた福祉中心の政策を転換させ「サッチャー革命」と呼ばれた。それは経済を成長させる一方で格差を生み、国民には痛みを強いる政策でもある。
2001(平成13)年の最初の所信表明演説で、小泉は「今の痛みに耐えて明日を良くしよう」と訴え、郵政民営化や道路公団民営化に取り組む。これには、野党より自民党の内部から反発が出た。つまり自民党には「大きな政府」の信奉者が多かった。
それを小泉は「抵抗勢力」と呼んで徹底した戦いを宣言する。そのやり方は政治改革に反対する勢力を「守旧派」と呼び、対立を強めることで改革を前に進めた小沢と似ている。「小さな政府」も、元をたどれば二大政党制のために小沢が構想していた。2人は
「平成の好敵手」だったと私は思う。
小泉の5年5か月は終始「自民党との戦い」だった。その頂点は2005(平成17)年の「郵政解散」である。郵政民営化への反対が圧
倒的に多い中、小泉は解散を打って血路(けつろ)を開く。民営化反対派を選挙で公認せず、さらに「刺客」を送り込んで落選させた。大博打だったが国民は小泉を支持し、自民党は大勝した。しかし小泉はその翌年、あっさり首相を辞め、跡目を安倍晋三に譲った。
なし崩し的に専守防衛から逸脱していった自衛隊
小泉政権下では自衛隊に対する米国の要求がますますエスカレートした。2001年9月の米同時多発テロへの報復として米国がアフガン戦争を起こす時、アーミテージ国務副長官は柳井駐米大使に「ショー・ザ・フラッグ(日の丸を見せろ)」と言った。日本はテロ対策特措法を作り、海上自衛隊がインド洋で米軍に給油活動を行うことにした。
2003年のイラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド(地上部隊を送れ)」と言われた。そのためイラク特措法が作られ、復興支援活動として陸上自衛隊をサマワに派遣、また航空自衛隊も現地で輸送活動に従事した。湾岸戦争でのマイナスイメージから抜けられず、日本は米国の「上から目線」の要求に応じざるを得なかった。
小泉は「自衛隊の行くところは非戦闘地域」と言ったが、現実には死人が出ることもあり得た。軍隊ではない自衛隊が、なし崩し的に軍隊として使われている現実をどうするか、日本人は真剣に議論しなければならないと思うが、それがないまま、その12年後の第3次安倍政権では解釈改憲によって集団的自衛権の行使が認められた。平成の自衛隊は専守防衛から大きく逸脱していく。
話を2006年に戻そう。小泉政権を引き継いだ第1次安倍政権も短命に終わる。小泉政権の負の遺産と、小沢率いる民主党の挑戦に敗れたのである。小泉構造改革は高度成長を成し遂げた日本の経済構造を破壊し、世界で最も少ない格差を過去のものとした。経済は
成長しても国民に実感はなかった。
自民に対し「大きな政府」的政策を掲げた小沢民主党
2003(平成15)年に民主党と自由党が合流し、06(平成18)年には小沢一郎が民主党代表に就任した。小沢は「小さな政府」の自民党に対し、「大きな政府」を党の政策にした。その標語が「政治は国民の生活が第一」である。構造改革で痛めつけられた国民には魅力的に思えた。
2007(平成19)年7月の参議院選で安倍自民党は歴史的大敗を喫する。衆参「ねじれ」が生じ、安倍政権が国際公約した自衛隊の給油活動は継続できなくなった。にもかかわらず、安倍は続投を表明した。私には政治が分かっていないとしか思えなかった。9月の臨時国会が開かれてから、ようやく気付いたのか安倍は突然ぶざまな退陣劇を演じた。
一方で民主党は勝利に酔い、次の衆議院選で政権交代だと勢いづいた。しかし小沢は冷静だった。政権を取れば官僚を操縦することになるが、民主党の政治家には政権運営の経験がない。官僚を使いこなせないと考えていた。
権力の要諦を知る好機だった幻の「大連立」構想
小沢は「ねじれ」に苦しむ福田康夫総理に「大連立」を打診する。大連立で民主党議員を政権の内側に入れ、官僚の操縦術と政権運営の「コツ」を覚えさせる。次に自民党にも民主党にも考えの違う議員が混在しているのを、一度シャッフルした後で同じ考えの者同士を集め、2つの党に分ければ政権交代可能な構図が出来る。
さらに小沢は日本の外交を「日米同盟基軸」から「国連基軸」に変えることを連立の条件にした。米国とは協調するが、言いなりにならない体制を復活しようとしたのである。福田は外務省にその検討を命じた。ところが、民主党幹部はみな大連立に反対だった。次の選挙で政権を取れるのに連立する必要はないというわけだ。
それを聞いて私はがっかりした。政治の奥深さを民主党の議員たちは分かっていないと思った。冷戦時代に日本を高度成長に導いた、あの「絶妙の外交術」に代わる仕組みができたかもしれないのに、それを理解していない。民主党政権が誕生して国民はフィーバーしたが、私はきっと失敗するだろうと冷ややかに見ていた。
そして明治以来、この国を運営してきた官僚主導の権力は、小沢さえ押さえ込めば民主党政権ができてもどうにでもなると思ったのではないかと考えた。私の考えが当たっているかどうか知らないが、小沢は検察から摘発され、無罪にはなったが政治力を大きく削がれた。そして民主党政権は案の定、迷走を重ねた。
国民の期待がすぐ失望に変わった民主党政権
21世紀初頭に小泉の出現に熱狂した国民は、一時は民主党政権にも熱いエールを送ったが、それはすぐに失望に代わり、その失望が再び安倍政権を誕生させる。自民党が細川政権の誕生で野に下った期間は1年弱だったが、民主党政権の誕生で野に下った期間は3年3か月である。
民主党がもう少し成熟していれば、官僚の操縦術と政権運営の「コツ」を身に着け、自民党をさらに長く権力の座から遠ざける可能性があった。その恐怖感が安倍自民党を結束させる。そして安倍政権の長期化を可能にしている。
再登板した安倍政権は「何でもあり」「米国頼み」
再登場した安倍はかつての失敗から学び、バブル崩壊以来のデフレの解消に取り組むことが国民の支持を得る道だと判断した。そのため大胆な金融緩和を行うが、しかし「アベノミクス」の三本の矢には公共事業と規制緩和という「小さな政府」と「大きな政府」が混在している。
いわば「何でもあり」の政策で、金融緩和の効果に疑問が出れば、「アベノミクス」第二幕と称して、かつての民主党と似たような幼児教育の無償化を打ち出したりする。つまり小泉政権と違い、2つの政党と政策が切磋琢磨する構図を作るのではなく、ひたすら政権交代をさせたくない姿勢を見せている。
外交も米国頼み一色である。日本は必要以上に米国の顔色を窺うようになった。これは米国の思うつぼだ。ジョセフ・ナイが言うように、日本に自立のための軍隊は持たせず、日米同盟を強固にすれば軍事でも経済でも日本を脅して米国は思い通りの要求を飲ませることができる。その体制が強まった。
一極支配やめようとしている米国、日本はどう戦略描く
しかし冷戦終結後に唯一の超大国になった米国は、もはや世界を一国で支配することが不可能になった。オバマはリベラルな手法で、トランプはそれと真逆の手法で、「世界の警察官」をやめようとしている。クリントンやブッシュ(子)が米国の価値観で世界を支配しようと起こした戦争で躓き、中国の台頭に対応できなくなっているからだ。
トランプを見ていると、「アメリカ・ファースト」と言いながら、米国一極支配から多極化への構造転換を図っているように見える。冷戦構造は米ソ二極、平成の時代は冷戦後の米国一極支配が崩れていく過程、そして令和の時代にはこれまでと異なる未知の構造が待ち受けている。
日本は冷戦構造を利用して絶妙の外交術を展開し、格差の少ない経済大国に上り詰めたが、米国一極支配が崩れていく平成の時代には、米国の逆襲に遭い、米国への従属度を強めた。各国がそれぞれの戦略を磨いている時に、かつての成功に引きずられ、真剣に生き残りの戦略を考えなかったからだと私は思う。
今度こそ世界の構造変化をしっかり見抜いて、世界最速の少子高齢化に突き進む国の生き残り戦略を打ち立てる時が来ているように私は思う。
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■田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC−SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中
平成の日本政治とは?(3)小沢氏めぐる愛憎劇に飲み込まれた30年
2019/5/2(木) 19:45配信THE PAGE
今回は4回連載の第3回。平成の政治改革をめぐる自民分裂から小泉政権誕生前までを振り返ります。
政権交代可能な政治へ急進的に改革進めた小沢一郎
米国の言いなりにならないように万年与党と万年野党が役割分担する政治は、冷戦の終結で意味をなさなくなった。同時に38年間も自民党だけが権力を握ってきたことは日本政治に「制度疲労」を起こさせた。
竹下登は平成(1989)元年を「政治改革元年にする」と言ったが、竹下が退陣した後もそれは日本政治が取り組まなければならない課題だった。自民党は党内に政治改革推進本部を設け、後藤田正晴が改革の旗振り役を務めた。しかし現実に平成の政治改革を推し進めたのは小沢一郎である。
2人とも万年与党と万年野党を終わらせ、政権交代可能な仕組みを作る点では一致していた。そのために選挙制度を「中選挙区制」から「小選挙区制」に変える方向性も同じだった。しかし自民党では中曽根康弘や竹下が急激な改革に反対して中選挙区制を支持し、社会党や共産党も小選挙区制が導入されれば候補者全滅の可能性があるため強く反対していた。
戦後の日本政治では反吉田派の鳩山一郎や岸信介が小選挙区制導入論者だった。日本が自立するためには軍隊が必要で、そのために憲法改正しなければならないが、発議に3分の2の議席が必要で、それは中選挙区制では実現しない。そのため単純小選挙区制を導入しようと考えた。しかし野党の反発で断念する。田中角栄も小選挙区比例代表並立制を導入しようとして、やはり野党に潰された。
小沢は小選挙区に反対する勢力を「守旧派」と切り捨て、対立を激化させることで改革を推し進めようとする。後藤田は手法に於いては漸進的で、急進的な小沢に批判的だった。しかし平成の政治改革は、良くも悪くも剛腕をふるう小沢の手法で進められ、平成の
日本政治は小沢をめぐる愛憎劇に飲み込まれていくのである。
国対政治仕切った金丸信「こんなこともう続かない」
「55年体制」は自社が表で対立し、裏では手を握る仕組みだった。何が行われていたかと言えば、すべての法案を国会が開かれる前に自社の幹部が仕分けする。議論する前から法案は「成立」、「廃案」、「継続」に分類される。どこで審議が止まり、どこで再開されるかの国会日程もあらかじめ決められた。
ただし自社の議員たちにそれは知らされない。一握りの幹部だけが知る秘密である。一般の議員たちは言われた通りに動く「駒」でしかなかった。これが「国対政治」と呼ばれる日本独特の政治の仕組みである。
「国対政治」を取り仕切っていた金丸信は「こんなことはもう続かない」と私に言った。国対政治の秘密を知る者が、自社なれ合いの限界を肌で感じ、政権交代の必要性を理解していたのだと私は思う。
金丸の考えは自民党を2つに割り、最大派閥の竹下派と社会党右派で1つの政党、竹下派以外の自民党がもう1つの政党になる構想だった。戦前の日本では分配に力を入れ積極財政を行う「政友会」と、成長に力を入れ緊縮財政を行う「民政党」が政権交代していた。それを真似て竹下派と社会党右派が積極財政、それ以外の自民党は緊縮財政を主要政策にし、その2つが交代することでバランスを取ろうとした。
金丸の構想に経団連会長の平岩外四(がいし)が賛同し、社会党の田辺誠委員長を交えて秘密会談が持たれた。自民党には組織も金もあるが、竹下派と社会党右派が作る新党に金はない。金丸が自分の土地を売って資金を作る計画が話し合われた。しかし、その矢先に金丸が脱税容疑で検察に逮捕され、この構想が日の目を見ることはなかった。
選挙制度めぐる対立で自民が分裂、結党以来初の下野
竹下派会長だった金丸の後継をめぐり、竹下と小沢の間に争いが起こる。それが選挙制度をめぐる対立と絡まり、最大派閥竹下派は分裂した。小沢や羽田孜が竹下派を出て羽田派を結成、それが自民党分裂の引き金になる。
1993(平成5)年5月、選挙制度改革をやると言いながら先送りした宮沢喜一首相に対し、野党が内閣不信任案を提出すると、羽田派は不信任案に賛成し、宮沢内閣不信任案が成立した。小沢らは集団離党して新生党を結成。宮沢は衆議院を解散するが、総選挙で自民党は過半数を失う。それでも自民党はまだ衆議院第1党で、他党と連立すれば政権は維持できた。
しかし小沢が日本新党の細川護熙(もりひろ)を担ぎ、いち早く8党派をまとめたため、自民党は結党以来、初めて権力の座から転げ落ちる。その恨みが自民党内に沈殿し、小沢個人に対する私怨となった。
非自民の細川政権、突然の国民福祉税発表で瓦解
初の非自民政権の誕生に国民は好意的で、細川内閣の支持率は70%を超えた。その勢いで細川は自民党総裁の河野洋平と小選挙区制導入で合意する。ただし小選挙区制に反対の自民党と社会党の要求を入れ、単純小選挙区制ではなく比例代表並立制となり、少数政党も生き残る可能性が残ったため、政権を取るには連立の数合わせがカギを握ることになる。
経済と軍事で日本に圧力をかけ続ける米国のクリントン政権は、細川政権に対し内需拡大と所得税減税を求めてきた。所得税減税に応ずれば他に財源を確保する必要がある。赤字国債発行をやらない方針の細川は、消費税を国民福祉税として7%に上げる方針を発表した。
突然の発表だったこともあり、社会党と武村正義官房長官は強硬に反対した。細川は求心力を失い、社会党と新党さきがけ(代表は武村氏)が連立離脱に向かう。8党派は内側から崩れ、自民党が東京佐川急便から細川への政治献金を追及する中、細川は突然退陣を表明した。羽田孜がその後を継承するが、少数与党では政権を維持できない。非自民政権は1年足らずの短命に終わった。
自社さ連立で社会党は野党時代と真逆の主張を展開
自民党は社会党と新党さきがけを取り込み、社会党の村山富市を首相に担いで自社さ連立政権を作った。村山は所信表明演説で「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明し、野党時代の社会党と真逆の主張を展開した。
これに国民は驚いたが、しかし権力を握った瞬間に野党時代の主張を変えたことがおかしいのではなく、政権を奪った時に言えないことを主張していた野党がおかしいのである。政権を奪うから野党であり、政権を批判するのもそのためだ。批判のための批判では
なく、政権を奪った後の主張を野党時代から言い続けなければならない。
しかし日本ではあまりにも長い間、万年与党と万年野党が続き、万年野党は政権を奪った後のことなど考えず、ひたすら護憲だけを訴えてきた。そのことが村山政権の誕生で国民の知るところとなった。しかし国民もなかなか冷戦時代の意識から抜け出せない。社会党支持者は村山政権に幻滅し、社会党は見る影もなく衰退していった。そして村山も限界を感じたのか1年半足らずで退陣を表明した。
福田系の首相が22年ぶり誕生、田中系支配から転換
自社さ連立で政権に復帰した自民党は、その後も自自、自自公、自公保、自公と連立を続け、その間に首相の顔は目まぐるしく変わる。米国のクリントン大統領の8年間の在任中、日本の首相は7人を数え、クリントンが最後に相手をしたのは森喜朗首相だった。
森は急死した小渕恵三の後継となる。しかし「密室の談合」で選ばれたと批判された。そのため就任当初から人気がなく、しかも
「日本は神の国」「無党派は選挙で寝ていてくれたる方が良い」など失言も多く、内閣支持率は就任直後を除いて常に不支持が支持を上回った。
日本の高校生が乗る練習船がハワイ沖で米国の潜水艦と衝突し水没した「えひめ丸事件」(2001年)で、一報が入ってもゴルフをやめなかったことから内閣支持率は一桁になる。森も就任から1年という短期で首相を辞めた。
しかし田中角栄の流れをくむ政治家が力を持つ自民党で、森は福田赳夫以来22年ぶりに首相になった福田系の政治家である。それが現在の安倍晋三に至るまで、その後の自民党を支配する。そのため、森はその後の政権にも影響力を持ち続けた。
次の首相になる小泉純一郎は、森の不人気の反動で爆発的な人気を獲得する。冷戦後の日本政治は「55年体制」に代わる新たな構図を見つけられず、暗いトンネルに入ったまま国民には閉塞感が蔓延していた。そこに「変人」が現れ、空前絶後のパフォーマンスで
国民の閉塞感を一気に吹き飛ばす効果を発揮した。
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■田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC−SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中
平成の日本政治とは?(2)冷戦後の世界戦略を考えなかった日本
2019/5/1(水) 22:10配信THE PAGE
今回は4回連載の第2回。平成の始まりから冷戦の終結後までを振り返ります。
竹下登が思い描いた日本政治の抜本改革絵図
1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、「激動の昭和」は終わり、翌8日に「平和が達成される」という意味の「平成」に改元された。しかし政治の世界に「平成」はなかった。
昭和の最後に誕生した竹下登内閣は自民党最大派閥を擁して盤石の態勢だった。その勢いで竹下は大平総理が悲願とした消費税導入に取り組む。しかしそこに待ち受けていたのは戦後最大級の政治スキャンダル「リクルート事件」だった。1988年の夏、新規ベンチャー企業リクルートが政界、官界、経済界、マスコミ界の重要人物に未公開株を購入させていたことが発覚した。
未公開株の購入は違法ではないが、リクルートの経営者・江副浩正は中曽根康弘、竹下、宮沢喜一ら大物議員すべてに未公開株を購入させ、それが値上がり確実であることから「濡れ手で粟」の批判を浴び、国民の怒りを買った。
消費税導入を政権の柱にした竹下は、それを社会保障の財源に充て、少子高齢化に備えようとしていた。ヨーロッパ型福祉国家を目指す野党も反対ではなかった。ところがリクルート事件で国会は荒れ模様となる。審議拒否が相次ぎ、業を煮やした政府与党は消費
税法案を強行採決、それに野党が反発し、平成元年の通常国会は予算が通らない異常事態となった。
予算が通らなければ行政機能は麻痺して国民生活に悪影響を及ぼす。ところが新年度の4月になっても国会は動かない。竹下は自分の首と引き換えに予算を通すよう野党に求め、4月25日に退陣を表明した。日本の政治史上、前代未聞の退陣劇であった。
政権が発足した頃、竹下は日本政治の行く末を次のように構想していた。竹下が税制改革をやり、次の総理の安倍晋太郎が政治改革をやる。そしてその次の藤波孝生が地方分権に取り組む。それによって明治以来の官僚主導と戦後米国に主導された日本政治を見直す。
ところが安倍は病に倒れ、次の次と考えた藤波もリクルート事件で起訴された。竹下は安倍に託そうとした政治改革を前倒しし、平成元年を「政治改革元年」と名付けて、自ら政治改革に乗り出そうとするが、それも退陣によって夢破れた。
竹下の後継である宇野宗佑は、6月に首相に就任した直後に女性スキャンダルが発覚。また消費税が4月から導入されたこともあって、7月の参議院選で自民党は結党以来初めて参議院の過半数を失う。首相指名選挙で参議院は社会党の土井たか子を選出し、結局は衆議院から選ばれた海部俊樹が首相になるが、平成元年の日本政治は史上初めてのことばかりが相次いだ。
湾岸危機で多国籍軍への海外派遣は議論すらされず
そして世界が大きく変わる。11月に冷戦構造を象徴する「ベルリンの壁」が崩れ、12月に米国のブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ島で「冷戦の終焉」を宣言した。世界は新たな時代に突入するが、それは日本を高度成長に導いた戦後政治の基盤が崩れたことを意味した。
冷戦時代の米国の敵はソ連である。しかし冷戦末期にはソ連以上に日本経済が米国を脅かす存在になった。日本の製造業に米国が勝てないのはなぜか。1980年代終わりの米国にはリビジョニストと呼ばれる対日強硬派が現れ、日本を異質な国だと批判した。
米国議会は1990(平成2)年の末に「日本の経済的挑戦」と題する公聴会を開き、日本の構造をあらゆる角度から分析した。また町の本屋には『来るべき日米開戦』と題する本が積み上げられベストセラーになる。米国の庇護の下で経済成長した日本に対する政策を見直せという米国世論が高まった。
その年の夏にイラク軍がクウェートに侵攻して湾岸危機が起こる。各国は議会を開いて対応を協議し、国連が主導する多国籍軍に34か国が自主的に軍隊を派遣した。その時、日本は国会を開かなかった。開けば憲法論議が巻き起こり、自衛隊の海外派遣が認められる可能性はなかったからである。
唯一、自衛隊派遣を主張したのは小沢一郎自民党幹事長だったが、海部首相をはじめ、与党もみな自衛隊派遣には反対だった。吉田茂が「米国に外交で勝つ」ために利用した護憲思想は根強い力を持っていた。日本政府は国会で議論することなく、法人税の臨時徴収で130億ドルの巨額な資金をつくり、米国に提供する。
日本に敬意を持っていた米国の見方が一変する
この日本の姿勢が海外から厳しい批判を浴びた。当時私はワシントンで米国議会情報を収集していたが、米国人からこう言われた。「日本経済の生命線は中東の石油である。その中東で危機が起きているのに日本人は自分の問題と考えず、国会で議論することもなく、ひたすら米国を頼って来た。日本は経済大国だと思っていたが、大国ではなく米国に従属するしかない2流の国だ」。
私は米国の日本を見る目が一変したと思った。日本経済の台頭に脅威を感じながら、しかしそこまで上り詰めた日本人の努力に敬意を払い、対等な大国同士の関係を築けるかと思っていたら、実は強い国にただ揉み手をする情けない国だと分かり、日本に対する侮蔑の感情が一気に沸き上がってきたのである。
私は日本を経済的成功に導いた吉田の外交術によって、今度はそれまで勝ち得た財産を失うことになるのではないかという思いにとらわれた。平和憲法が経済的成功につながった時代は終わり、平和憲法の弱みに付け込まれる時代が到来したと思った。
1991(平成3)年12月、初の共産主義国家ソ連が崩壊した。米国が唯一の超大国として世界に君臨することになる。米国の政治家たちは大挙してモスクワを訪れ、歴史的瞬間を自分の目に焼き付けようとした。しかし日本からモスクワを訪れた国会議員は一人しかいない。日本の政治家にとって、ソ連崩壊は遠い世界だった。日本はバブル崩壊と金融機関の不祥事に目を奪われていた。
冷戦終結で平和な世界になると考えなかった米国
ソ連崩壊を受けて、宮沢首相が「これで日本も平和の配当を受けられる」と語ったのを聞き、私はがっかりした。米国ではソ連なき世界をどうするかで真剣な議論が展開されたが、冷戦の終結で世界が平和になるとは誰も思っていなかった。むしろソ連がなくなれば、ソ連が管理してきた核技術や核科学者が世界に拡散し、危険がより深刻になると考えていた。
ソ連をスパイしたCIA(米中央情報局)は廃止されるどころかより強力な組織に改編され、ソ連以外の、例えば経済分野も担当するようになる。軍も世界的な再編を行って次の脅威に備えることになった。そして米国は冷戦後の米国の敵を「ロシア、中国、日本、ドイツ」の4か国と名指しした。1992(平成4)年にブッシュ政権下の国防総省が作成した機密文書DPG(国防計画指針)に書かれてある。
経済も軍事も米国の戦略に組み込まれていった日本
その考えは共和党だけでなく民主党にも共有された。1993(平成5)年から始まるクリントン政権で国防次官補を務めたジョセフ・ナイは、「日本を今後も自主防衛能力を持てない状態にしておくには、日米同盟を維持する必要がある。日本が米国に依存し続ける仕組みを作れば、我々はそれを利用して日本を脅し、米国に有利な軍事的・経済的要求を飲ませることが出来る」と語った。
クリントン政権は日本の宮沢政権に対し、日本は不公正な貿易を行っているとして、日本に制裁を課す「通商法スーパー301条」をちらつかせ、また管理貿易につながる「数値目標」の導入を要求してきた。その一方で日本をけん制するためか、経済で中国に接近し日本を無視するようになる。さらに「年次改革要望書」を送りつけ、日本型資本主義を米国型のそれに変えるよう迫ってきた。
その一方でクリントン政権は、ジョセフ・ナイの進言を取り入れ、中国と北朝鮮の脅威を強調し、「アジアの冷戦は終わっていない」として、北東アジアに10万人規模の米軍を駐留させ、1996(平成7)年には橋本龍太郎政権と「日米安保再定義」を行い、従来の日米安保体制を変更させた。
日米安保条約は冷戦が前提である。ソ連を仮想敵として日本が基地を提供する代わりに米国が日本を防衛する内容だった。ソ連がなくなれば全面的に見直す必要がある。しかし日本は見直しも何もしなかった。すると米国は日本周辺で有事があれば自衛隊が米軍に協力することを要求し、それを「安保再定義」に盛り込んだのである。
日本は言われた通りに周辺事態法をつくり、自衛隊は米軍と一体化する方向へ踏み出した。基地と防衛がバーターされた冷戦時代と異なり、軍隊ではない自衛隊が米軍の軍事戦略に組み込まれることになった。
冷戦が終わったことで、米国は世界を一極支配する戦略を数年がかりで作成する。一方の日本はバブル崩壊の後始末や「政治とカネ」の問題に目を奪われ、官僚も政治家も冷戦「後」の戦略を考えようとしなかった。そのため経済も軍事も米国の戦略に唯々諾々と組み込まれていった。それが平成の日本政治である。
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■田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC−SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中
平成の日本政治とは?(1)経済大国に導いた「55年体制」の真実
2019/4/30(火) 22:55配信THE PAGE
政治という観点から見た「平成」は、国内外ともに激動の時代でした。国内では「平成の統治機構改革」と呼ばれる政治・行政改革が実行され、政権交代可能な二大政党制をイメージした小選挙区制の導入や、政治主導を進めるために官邸機能の強化が図られました。一方、国外に目を転じると、平成元年にあたる1989年に「ベルリンの壁」が崩壊し、冷戦が終結。それまでの米国・ソ連の東西陣営による二極体制が終わり、世界が新しい秩序と戦略を模索し始めました。
平成の30年間で日本の政治はどう変わったのか。「令和」の時代に向け何を教訓とするべきなのか。政治ジャーナリストの田中良紹氏に寄稿してもらいました。
今回は4回連載の第1回。平成の「前史」、戦後の日本政治を振り返ります。
民主的な軍隊つくった独と再軍備拒んだ日本
平成の日本政治を語るには、その前史から説明しなければならない。
戦後の日本は、敗戦による焼け野原から立ち上がり、朝鮮戦争とベトナム戦争の2つの「戦争特需」を利用して経済成長を遂げ、戦後40年目の1985(昭和60)年に世界一の債権国、つまり金貸し国に上り詰めた。平成を迎える4年前の出来事である。
日本の躍進を可能にした最大の要因は、米国とソ連の両陣営の対立による「冷戦構造」にあったと私は思う。米国は第2次世界大戦の敗戦国であるドイツと日本を武装解除し、勝者である連合国に二度と歯向かえないようにしたが、米ソ間に冷戦が始まり朝鮮戦争が勃発すると、方針を変えて日独両国に再軍備を求め、共産陣営と対決させようとした。
この時、西ドイツは米国の再軍備要求を受け入れ、しかしファシズムに支配された過去の反省から民主的な軍隊をつくる。成人男子に一定期間の徴兵義務を課すが、一方で徴兵拒否と上官に抵抗する権利を認め、徴兵拒否者には同じ期間の社会奉仕活動を義務付けた。
一方、日本は平和憲法を盾に再軍備を拒み、後方支援で朝鮮戦争に貢献する。追放した軍需産業の経営者を呼び戻し、武器弾薬を製造して米軍に提供した。それが日本経済を蘇らせ、日本は工業国として戦後のスタートを切る。
また日本はベトナム戦争でも、米国と軍事同盟を結ぶ韓国とは異なり、出兵をせずに後方支援に徹した。その戦争特需で日本は自動車と家電に代表される経済大国の地位を築くのである。そしてそれには「55年体制」と呼ばれる日本の政治構造が大きく寄与した。
吉田茂「軍事で負けたが外交で米国に勝つ」
私は田中角栄が「闇将軍」として権勢を誇った時期に自民党・田中派を担当した政治記者である。田中は1976(昭和51)年に発覚した「ロッキード事件」の無実を晴らすために派閥を拡大し、数の力で中曽根首相を操り、刑事被告人でありながら米国も中国もその存在を無視できないほどの力を持った。
ロッキード事件を「米国による田中潰し」と言う人がいるが、私は全くそう思わない。ここでは詳細に触れないが、田中が有罪判決を受けた後も、米国政治を動かすキッシンジャーが2度も田中邸を訪れ、日米関係について懇談しているのを私は見ている。キッシンジャーは田中に一目置いていたと私は思う。
その田中や竹下登から「55年体制」の真相を聞かされた。それはメディアが報道する「自社対立」とはまるで異なる構造だった。
戦後政治の基礎を作った吉田茂は「日本は軍事で米国に負けたが外交で勝つ」が口癖だったという。その吉田は、1947(昭和22)年の施政方針演説で「非武装中立」を宣言する。直後の1950(昭和25)年に朝鮮戦争が起きても、米国の再軍備要求を頑なに拒み続けたのは、そのためである。
我々は「非武装中立」を社会党の主張と思いがちだが、それより先に言い出したのは吉田である。そして吉田の周囲には、後に社会党左派の理論的支柱となる和田博雄や、労農派マルクス経済学者の大内兵衛、有沢広巳らがブレーンとして存在した。
和田博雄は第1次吉田内閣で農地解放を担当する農林大臣を務め、大内兵衛は吉田から請われて初代の統計委員長になり、軍国主義の日本がでたらめな統計で国民を騙した仕組みを変えた。また有沢広巳は「傾斜生産方式」を提唱して戦後復興に道筋をつけた。
過半数目指さなくても「3分の1」は取る社会党
では吉田の言う「米国に外交で勝つ」とは、どういうことか。米国に軍事で敗れた日本は、冷戦構造によって米国側につくしかない。米国も日本を「反共の防波堤」としてソ連側につくことを許さない。そのため日本は日米安保条約によって従属的な地位に置かれている。その米国に外交で勝とうというのである。
吉田は社会党を利用して米国を翻弄した。米国の強い再軍備要求をはねのけるには、平和憲法を守ろうとする広汎な国民運動がなければならない。それを社会党が主導する形にし、社会党政権が誕生すれば日本はソ連側につくことになる、と米国に思わせた。
「冷戦構造」がある以上、米国は社会党政権を誕生させるわけにはいかない。吉田の言うことを聞いて再軍備要求を引っ込め、代わりに実態は軍隊だが法的には警察という自衛隊がつくられた。妥協の産物であるため、その存在は常に日本の政治を揺り動かすことになる。
1955年に吉田派の自由党と反吉田派の日本民主党が合体して自由民主党ができても、社会党を利用して米国をけん制する手法は受け継がれた。自民党は米国から過度の要求があれば、社会党主導の国民運動を見せつけて米国をけん制した。
しかし「55年体制」は、米国に社会党政権誕生の可能性を見せても、現実に社会党政権が誕生する仕組みではない。もし社会党政権が誕生すれば、米国との関係で日本の政治は大混乱に陥る。そのため自民党と社会党は万年与党と万年野党の役割分担をした。
社会党は選挙で過半数を超える候補者を擁立しない。全員が当選しても過半数に達しないので政権交代は起きない。代わりに常に3分の1以上の議席を獲得し、3分の2の賛成が必要な憲法改正の発議をさせない。それが社会党の存在理由となり、護憲思想は広く国民に浸透した。
危機感なく、冷戦の恩恵受け過ぎていた日本
それを可能にしたのが「中選挙区制」である。1つの選挙区から複数の候補が当選する中選挙区制では、自民党同士が激突し、自民党と社会党は激突しない。社会党は自民党同士の激突の間隙を縫って3分の1の議席を獲得することが出来た。ある自民党幹部は私に、社会党の議席を減らさないことが日本の国益になると教えてくれた。
岸信介は日本が自立するため軍隊を認める憲法改正を主張していたが、米国に対し社会党政権誕生の可能性をほのめかして、米国から自民党の選挙資金を引き出した。社会党政権ができないことを知りながら吉田の外交術を使って米国を騙したのである。
こうして日本は米国が要求する軍事負担を軽減し、持てる力を経済に投入して高度成長を成し遂げた。米国の歴史学者マイケル・シャラーは「『日米関係』」とは何だったのか」(草思社)で、この仕組みを「絶妙の外交術」と書いている。ただしそれは冷戦構造がなければできない手法だった。
平成を迎える4年前、日本は世界一の金貸し国となり、米国は世界一の借金国に転落した。奇しくもその年は日本政治を裏から支配した田中角栄が病で政界から姿を消し、ソ連共産党にゴルバチョフ書記長が誕生し、米国が大幅なドル安を先進各国に強制する「プラザ合意」が発表された年である。
田中が政界から消えたことは「55年体制」の終わりを、ゴルバチョフ書記長の登場は冷戦の終結を、そして「プラザ合意」は米国が日本経済に逆襲の狼煙を上げたことを意味する。急激な円高は輸出産業を直撃し、さらに日本をバブル経済に導くのである。
その2年後の1987(昭和62)年に行われた昭和最後の自民党総裁選で、竹下登は「世界一物語」を引っ提げて全国各地を遊説した。「日本の長寿は世界一、格差がないのも世界一、それが世界一の金貸し国になった」と演説して回った。竹下の言う通り、その頃の社長と新入社員の給料の差は10倍以内で、ソ連のゴルバチョフ書記長から「理想の共産主義」と称賛された。
日本は敗戦から40年で最も格差の少ない経済大国をつくり上げたが、それが平成に入ると全て音を立てて崩れ去る。冷戦が終結した後の世界を生きるには、日本はあまりにも冷戦の恩恵を受け、成功し過ぎていた。
誰も危機感を持てず、自らの将来を真剣に考えないまま、日本政治は未知の世界を試行錯誤しながら苦難の道を歩むことになった。
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■田中良紹(たなか・よしつぐ) ジャーナリスト。TBSでドキュメンタリー・ディレクターや放送記者を務め、ロッキード事件、日米摩擦、自民党などを取材する。1990年に米国の政治専門 チャンネルC−SPANの配給権を取得してTBSを退職、(株)シー・ネットを設立する。米国議会情報を基にテレビ番組を制作する一方、日本の国会に委員会審議の映像公開を提案、98年からCSで「国会テレビ」を放送する。現在は「田中塾」で政治の読み方を講義。またブログ「国会探検」や「フーテン老人世直し録」をヤフーに執筆中
大阪市長選に出馬した新人マック赤坂氏(65)が12日夜、前職橋下徹氏(44)が大阪市北区で開いた個人演説会に来場し、質問をしようとして男性に羽交い締めにされる騒動があった。マック赤坂氏はけがをしたと訴え、救急車で搬送された。
マック赤坂氏によると、来場は橋下氏に公開討論会を申し込むのが目的だった。挙手したのを見た橋下陣営側が「手短に」と告げた直後、男性が背後からつかみかかった。本人が110番し、会場は一時、騒然とした。
会場には、マック赤坂氏と一緒に、出馬した新人藤島利久氏(51)もいた。橋下氏の陣営はこの直後、2人を会場から退去させた。
靖国神社に行ってきた。
安倍首相の靖国参拝について改めて考えてみたい、と思ったからだ。
昨年末の参拝には、中国や韓国が激しく反発。米政府が「失望」を表明したほか、欧米のメディアも厳しく批判した。こうした海外の反応を受けて、国内でも外交や経済への影響を懸念する論評がある一方、逆に不当な干渉だと声高に反発する人たちもいる。
海外の視線に対して敏感であることは大切だろう。だが、靖国問題というと、外交的な側面ばかりが強調されすぎるような気がする。本当は、それ以上に、日本人自身が日本のこととして、この問題をもっと考える必要があるのではないか。そんな思いで靖国神社を訪ね、同神社の意義や価値観を示す遊就館の展示を見直した。
この神社の歴史は、幕末から明治維新にかけて功績のあった志士らを祀った東京招魂社に始まる。明治天皇の命で、1879(明治12)年に靖国神社と改名。以後、日中戦争・太平洋戦争に至る軍人・軍属らの戦没者の霊を祀っている。
祀られるのは、基本的に天皇のために戦って亡くなった人々。なので、幕末の志士である吉田松陰や坂本龍馬は祀られているが、維新に多大な功績があったものの西南の役の指導者となった西郷隆盛は祀られていない。それどころか、遊就館には西郷の似顔絵が描かれた指名手配書が展示されている。他方、西南の役での熊本城籠城の戦いは、高く評価されている。
遊就館には、同神社の歴史観に則って様々な資料が展示されている。それは、日本が対外的に行った戦いはすべて正当である、という全肯定の精神に貫かれ、日中戦争は「支那事変」、太平洋戦争は「大東亜戦争」と戦時中の名称で呼ばれる。
靖国神社の価値観は、この遊就館で上映されている映画を見ると分かりやすい。次のようなことが語られている。
日本は満州に「五族協和の王道楽土」を築こうとし、軍事行動を慎んでいたのに、中国の「過激な排日運動」や「テロ」「不当な攻撃」のために、やむなく「支那事変」に至った。そして、「日本民族の息の根を止めようとするアメリカ」に対する「自存自衛の戦い」としての「大東亜戦争」があった。この日本の戦いは、白人たちの植民地支配を受けていた「アジアの国々に勇気と希望を与えた」…。
昭和の初めから戦時中にかけての政府・軍部の宣伝そのものだ。靖国神社では、先の大戦は今なお聖戦扱い。まるで時間が止まったように、戦前の価値観が支配している。
太平洋戦争においては、日本兵の多くが餓死・病死した。その数は死者の6割に上る、との指摘もある。だが、そうした武勇にそぐわない事実や戦争指導者の責任は、ここでは一切無視されている。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のために、捕虜になって生還することができず、民間人まで「自決」せざるを得なかった理不尽さも記されない。戦争指導者に対して批判的な考えを記した学徒兵の手記なども、示されない。
映画では、「黒船以来の総決算の時が来た」との書き出しで始まる、高村光太郎の詩「鮮明な冬」が紹介されている。そこには日米開戦の時の高揚した気持ちと当時の一国民としての使命感が高らかにうたわれている。高村は、その後も勇ましい戦争賛美、戦意高揚の詩をいくつも書いた。しかし、遊就館の映画は、その後の高村については一切触れない。
彼は終戦後、己の責任と真摯に向かい合いながら、岩手の山小屋で独居生活を送った。そして、戦前戦中の「おのれの暗愚」を見つめた「暗愚小伝」を書いた。それには全く目を向けずに、「暗愚」の時代の作品だけが高らかに取り上げられ、今なお戦争賛美に使われていることは、泉下の高村の本意ではあるまい。
遊就館の展示は、すべてこうした価値観の下にある。展示物を見ている限り、軍隊の上官はすべて部下思いであり、責任感に溢れ、一人ひとりの兵士は皆、国のために喜んで命を投げ出したかのようである。中国においても、「厳正な軍紀、不法行為の絶無」が示達され、民間人の殺害など一切なかったかのようである。
過去の失敗や過ちから学ぶ視点は、まるでない。あるのは、国に命を捧げることへの称賛。しかも、国のために命がけで何かを成し遂げるというより、ただただ命を捨てる尊さが称えられている。
この点でも、靖国神社の時間は、昭和20年8月以前の段階で止まっているようだ。
国のために死ねば、靖国神社に祀られ、現人神である天皇陛下が参拝して下さる。それが日本国民として最高の名誉であり、喜びであるーー戦時中の国民に叩き込まれていた、この精神構造の頂上に、靖国神社は存在した。
少女時代に戦争を体験した作家の故上坂冬子さんは、『戦争を知らない人のための靖国問題』(文春新書)で、こう書いている。
〈死がこれほどまでに単純化されるのが、戦時体制なのだ。国家の為に命を捨てることに、まったく無抵抗にならなければ戦争などできるものではない。その意味で当時の日本は見事といえる体制を組んでいた。その頂点にあったのが、良くも悪くも靖国神社であ(った)〉
上坂さんは、A級戦犯の合祀や首相の靖国参拝に肯定的な論者だった。その方にして、同神社が国民を戦争に動員するシステムの頂点に位置したことは認めている。
そのような仕組みが分かっていても、遊就館での展示物を見ていると、いつの間にか心が引き込まれる。絶対国防圏と言われた南洋での戦いに敗れ、自決した司令官が最後に打った「我、身を以て太平洋の防波堤たらん」との決別電。家族に対する愛情と国のために命を投げ出す覚悟を綴った兵士たちの手紙。そして、壁に貼られた九千枚以上の顔写真…。
国のために己を犠牲にするひたむきな心情に感動し、国を思う悲壮感には思わず居住まいを正さずにはいられない。その思いを否定したり押さえ込む必要はない、と思う。多くの犠牲に対して、私も自然と頭を垂れ、哀悼の思いを捧げた。
ただ、そのような思いを、戦争やそれを招いた国策、戦争指導者への肯定に導いていこうとするところに、この神社の危うさがある。
戦後日本の体制づくりの土台には、戦争への反省があった。そのうえに、日本の復興があり、その後の発展があった。この土台を、靖国神社の価値観はそっくり否定してみせる。
反省する必要はない。あの戦いは間違っていなかった。国のために命を投げ出すことこそ尊いのだーーこのような価値観を、感動や感銘と共に心に注ぎ込み、人々の教化に努める。こうした機能を今なお維持している靖国神社は、慰霊のためだけの施設とは言えないだろう。
それでも、遺族や個人が戦没者を偲んで参拝するのは、まったく自由である。しかし、日本政府のトップにいる首相が、同神社の価値観を全く否定せずに参拝したことは、国民にとってどういう意味を持つのかは、よく考えるべきだ。
「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相の歴史観は、村山談話よりも、靖国神社の価値観と、共鳴し合っているように見える。また、安倍首相は憲法改正に意欲を示すが、自民党の「改憲草案」では、憲法の基本的な理念である「個人尊重」が消され、「国民の権利」より「公益及び公の秩序」が優越する。個より全体、個人より国が優先される考え方は、これもまた、国のために命を捧げることを称揚する靖国神社の精神と整合する。
それでも安倍首相は、対外的な批判を気にしてか、参拝の目的の1つとして「二度と戦争の惨禍で人々が苦しむことがない時代をつくるとの誓いの決意をお伝えするため」と述べた。
ところが自民党は、今年の運動方針案の中で、「靖国神社の参拝を受け継ぐ」と決めた際、従来の文章から「不戦の誓いと平和国家の理念を貫くことを決意」の一節を削除した。代わりに「日本の歴史、伝統、文化を尊重」を挿入。だが、我が国の長い歴史や伝統を考えれば、明治以降の歴史しか持たない靖国神社が「日本の歴史、伝統、文化」を体現しているとは言い難い。それでも敢えて、靖国神社の価値観を「日本の歴史、伝統、文化」にしようというのだろうか。
これには、自民党関係者からも不安の声が聞こえてくる。同党の衆院議員だった早川忠孝弁護士は、自身のブログで「不戦の誓いをしないで、靖国参拝で何を祈ろうというのか」「靖国参拝から不戦の誓いを外してしまえば、うっかりすると必勝祈願になってしまいかねない」と書いている。
さらに早川氏は、こうした重要な決定が、党内で十分に議論されずに決まってしまう今の自民党について、こう述べている。
〈自民党には真正保守の人やリベラル色の強い人など色々な人がいて、全体としてバランスのとれた穏健保守の政党だったはずなのに、段々リベラル色の強い国会議員の発言力が低下して、勇ましいラッパを吹く真正保守の人たちの声が大きくなっている、という証左だと思う。実に危うい〉
危うい、と私も思う。とりわけ、このような状況に対して大きな批判が起こらず、むしろ喝采を送り批判者を罵る人たちが少なくない今の社会の空気が、実に危うい。
上坂さんは、先の本の中でこうも書いている。
〈国中が一丸となって突撃していた時代の一種の危険をはらんだ快感が、戦争という二文字の裏側にある〉
「勇ましいラッパ」を吹き鳴らすのも、それに喝采の声で応えるのにも、「快感」がありそうだ。この「快感」の先に何があるのだろうか……。
靖国神社の後、私は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かった。ここには、身元が分からなかったり、引き取り手がない戦没者の遺骨が納められている。その数、35万8253柱(昨年12年26日現在)。ふるさとに戻ることができなかった軍人・軍属たちだ。さらに、海外での戦没者約240万人のうちの半数近くにあたる113万人の遺骨が、未だ日本に帰ることができないでいる、という。ちなみに、現在の新潟県の総人口は237万余人、宮崎県が113万余人。海外戦没者と未帰還者の多さに、あらためて愕然とする。
こうした多くの犠牲があったことを忘れまい。そして、「快感」の誘惑には、精一杯抗いたい。勇ましいラッパに心を躍らせるのではなく、正確な知識と情報を得て冷静に考える努力をしたい。理性が本当に大切な時代になった、と思う。
(1月17日付熊本日日新聞に掲載された拙稿に大幅加筆しました)
暮れも押し詰まった昨年12月26日、安倍晋三首相による靖国神社参拝は国内外に大きな衝撃を与えた。さらに驚きをもって迎えられたのが、米国の在日大使館が当日午後に「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」というコメントを出したことだ。米国国務省の報道官も同様の声明を発表した。
米国は安倍首相周辺の言動などから、年末に参拝がありうるという予想はしていた。「菅義偉官房長官もワシントンに密使を送り、参拝時の米国側の反応について瀬踏みしていた」(米国の外交筋)。こうした兆候を踏まえ、練り上げられたのが「失望」という表現だったのだ。
安倍政権の下で日本のナショナリズムが暴走する可能性は、オバマ政権にとって頭の痛い問題だった。小泉純一郎元首相と違い、安倍首相は歴史修正主義者なのではないかと警戒していたためだ。昨年3月の安倍首相訪米時にも、共同記者会見を開かないなど、オバマ大統領の対応は慎重なものに終始した。
しかし、さまざまなルートを通じた働きかけの結果、「昨年6月の段階で、ホワイトハウスは『アベの封じ込め』に成功したと判断した」(米国政府関係者)。与党内の政治力学やメディアによる批判も、安倍首相を十分牽制できると踏んだのである。
そのため、昨年夏以降は米国は日韓関係の改善に向け、日本批判を繰り返している韓国の朴槿恵(パククネ)大統領の説得に力点を移した。しかし、米政府内にも異論はあった。中国と対峙する米軍の内部からもそうした声は漏れている。
昨年9月、在韓米軍のマーク・ディロン参謀副長は「安倍首相による集団的自衛権への言及は東北アジアに緊張をもたらしている」と記者団に漏らしている。また、米太平洋軍司令官のサミュエル・ロックリア海軍大将も、尖閣諸島防衛に関する自衛隊との協議には慎重な姿勢を見せていた。それによる中国の反発を懸念してのことだ。
米国にとって、中国は最大級の債権者。中国の拡張主義を脅威と見ているのは確かだが、単純に敵対する関係ではない。また、同じ陣営にいるはずの日本と韓国が不和を抱える状況では、万が一の場合への備えもおぼつかない。
「失望」という表現の裏には、安倍首相が状況を複雑化させていることへの米国の強いいらだちがある。
こうした状況を、いわば「敵失」として利用しているのが中国だ。
中国の劉暁明・駐英大使は1月1日付の英デイリー・テレグラフ紙に寄稿した文章で、日本の軍国主義を“ヴォルデモート卿”に例えて靖国参拝を批判した。世界的ベストセラーの『ハリー・ポッター』に登場する悪役の魔法使いで、魂を「分霊箱」に保存しているため肉体が滅んでもよみがえる。日本軍国主義にとっての「分霊箱」が靖国神社だというのだ。
日本の林景一・駐英大使は「アジアの“ヴォルデモート卿”になりかねないのは中国だ」とする反論を6日付の同じ新聞に投稿。「軍拡を続ける中国こそ軍国主義だ」と、中国の軍事費が20年以上にわたり2ケタ増を続けていることを指摘した。
1月7日に中国外務省の報道官は、林大使の議論を「無知、無理、狂妄」と切り捨てたうえで、「中国の1人当たり軍事費は日本の5分の1」だと再反論した。日中がお互いに軍国主義のレッテルを張り合っているという構図だ。
また中国は、歴史問題に関する日本包囲網の形成にも余念がない。昨年末に王毅外相はドイツ、ベトナム、ロシア、韓国、米国などの外相と相次いで電話で会談。安倍首相の靖国参拝について中国に同調するよう求めた。
中国側はロシア外相が「中国の立場と完全に一致する」と述べたと発表しているが、ロシア側は公式発表していない。「ロシアでは靖国問題がまったく話題になっておらず、プーチン政権が日本との関係を大幅に悪化させてまでこの問題で中国と共闘するメリットがあるとは思えない」(全国紙モスクワ特派員)。ロシアに本当に中国と同調する気があるかは疑問が残る。
中国は、国外では日本の「軍国主義復活」を喧伝する一方、国内では安倍首相批判に的を絞っているようだ。
中国側は、昨年の半ばから経済面での歩み寄りを模索してきた。明確に政経分離という言葉は使わないが、実質的に政治と切り離して経済交流を推進する流れにある。
そのこともあってか、今のところ中国での日系企業の活動への影響は聞かれない。
北京に駐在する総合商社の幹部によれば、「1月7日時点で、内陸部の都市を含めて靖国神社参拝に対する抗議行動や不買運動は報告されていない」という。
2012年の尖閣諸島国有化後に全土で発生した反日デモは、日本政府を翻意させられなかった。さらに略奪や破壊が横行したことで、国際的にも中国の評価を下げた。そのことを中国政府はよく認識している。北京の日本大使館などで見られた小規模な抗議行動も、すべて当局によって抑え込まれた。
だが、日本商品離れが起きる可能性は否定できない。反日デモ後に販売が激減した自動車などでは、ようやく復調の兆しが出ていたが、その勢いをくじかれるおそれも大きい。
日産自動車、トヨタ自動車、ホンダは13年の中国での販売台数がそろって過去最高を記録している。しかし、日本勢が尖閣問題前の勢いを取り戻しているわけではない。
ナカニシ自動車産業リサーチの中西孝樹代表は、「中国での日本車の合計シェアは、12年の尖閣国有化問題の前に比べ2%以上落ちている。現状では市場拡大のスピードについていくのが精いっぱいで、シェア回復には至っていない。だが、今回の靖国参拝もあって政治リスクが高い現状では、日系企業が追加で戦略投資をするのは賢明ではないだろう」と語る。
やはり、日本企業の中国での活動が正常化するためには日中関係の安定が必要だ。そのためには、首脳会談の実現が欠かせない。今年の秋には北京でアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議が開かれる。日本の外務省内部では、この機会に日中首脳会談を実現させる、というのが一つの目標になっていた。だが、今回の靖国参拝によって、その先行きは不透明になっている。
韓国はどうか。これまで「歴史認識」と「慰安婦問題」で安倍首相の姿勢に反発してきた朴大統領は、今回の靖国参拝にも強く反発している。7日から訪米中の尹炳世(ユンビョンセ)外相は、ケリー国務長官と会談後の記者会見で、「北東アジアで歴史問題が地域の和解と協力の妨げ」と、対日批判の常套句を口にした。
「朴大統領は今回の参拝で救われたのではないか」。日韓の外交関係者はそう推測する。これまでの姿勢を変え、「日本との首脳会談を実現するべき」という内外の圧力をかわすことができるためだ。
韓国内では、12年末の大統領選に情報機関である国家情報院が介入した問題で、朴政権の正統性を問う声が日増しに強まっている。公約の目玉だった経済再生もうまくいっていない。経済的な結び付きが強い日本とこのままの関係でよいのか、まずは韓国から歩み寄って日本と首脳会談をすべきではないかという意見は現在でも少なくない。ところが、靖国参拝はこうした声をかき消してしまった。
6日の新年記者会見で朴大統領は、歴史認識について言及した。「韓国側が安倍政権に望んでいるのは、『河野談話』『村山談話』の内容どおりに歴代政権の立場を継承すると明言する、ということだ」と、慶應義塾大学法学部の西野純也准教授は指摘する。
だが、目前には日韓関係をさらに冷却しかねない問題が横たわる。戦時中の朝鮮半島からの徴用工に対する賠償責任を問う裁判で、韓国最高裁判所の判決が近々出る予定だ。これまで日本企業への賠償責任を求める判決が出ている。これと同様の判決を最高裁が下した場合、日韓政府ともに難しい対応を迫られるのは間違いない。
日韓で、政権への支持状況や国内の懸案を見比べると、状況がよいのは日本のほうだ。そのため、「韓国側も、まずは日本から前向きな動きを見せてほしいと願っている」(西野准教授)が、現在の安倍首相を見るとそれはありえないという悲観論が韓国でも広がっている。
中国にしろ、韓国にしろ、関係打開のためには首脳同士の対話しかない。しかし、安倍首相にはそのためのアクションが見えない。「対話のドアはつねに開いている」と言うが、迎え入れるためにどうするかという提案がいっさいないのだ。それを欠いたままでの靖国神社参拝は、やはり大きな失策だろう。抜本的な軌道修正が必要だが、米国に強制されて初めてそれが実現するというのではあまりに情けない。
(=週刊東洋経済2014年1月18日号 核心リポート01)
「よその国の領土でも領空でも領海でもない(場所・空間で)、米軍が攻撃を受けた場合、日本が何もしないということが本当にできるのか」
平成13年4月、首相に就任した小泉純一郎は記者会見でこう指摘し、集団的自衛権の政府解釈見直しを示唆した。歴代政権の防衛政策の転換につながる画期的な発言だった。
もっとも、これを小泉に言わせたのは当時、官房副長官だった現首相の安倍晋三と、安倍に近い外交評論家、岡崎久彦だった。当時は「外交・安全保障政策は白紙状態だった」(周辺)という小泉に対し、2人で2回にわたり数時間かけて集団的自衛権行使の必要性を説き、記者会見で言及させたのである。
集団的自衛権の行使を可能にすることで、日米同盟をより対等に近づけ、米国に対する発言権や影響力を強める。そうして初めて、日本の安寧は将来にわたり保たれる。これが一貫して変わらない安倍の信念だ。
ただ、小泉はやがてこの問題を封印し、自身が取り組む政策課題から外してしまう。当時の政府高官はこう回想する。
「小泉さんは解釈変更のハードルの高さに気づき、面倒になったのだろう」
小泉の後継者となった安倍は今回と同じく、第1次政権(18年9月〜19年9月)でも集団的自衛権の行使容認に向けた政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(安保法制懇)」を設置した。発表したのは19年4月。政権発足からすでに7カ月が経過していた。
安倍はこの間、従来の答弁との整合性にこだわる内閣法制局長官の宮崎礼壹(れいいち)を3度も官邸に呼び、説得に努めてきた。
法制局長官は1次政権発足とあわせて前任の阪田雅裕から宮崎に代わったばかり。宮崎をはじめ法制局幹部が反発して辞任すれば、政権運営に混乱を来しかねない。それに乗じ、宮崎は辞任をちらつかせて解釈変更に抵抗したとされる。
宮崎には、内閣法制局の法案審査を担当する参事官だった頃に国連平和維持活動(PKO)協力法をめぐってこんなエピソードもある。省庁幹部が明かす。
「宮崎氏の方から参加部隊の撤収条件や武器使用に厳しい制限を加えた『PKO5原則』を示してきて、『これを法案に盛り込まなければ法案審査はしない』と言う。完全な越権行為でありショックを受けた」
こうした内閣法制局の姿勢は、法律を自分たちに都合良く解釈する「法匪(ほうひ)」と各方面からの批判を招いてきた。
安倍が今年、法制局長官に内部登用をせず駐仏大使だった小松一郎を据えたのも、法制局に染みついた「法匪」を打破するためだ。この人事に憲法解釈見直しに慎重な勢力は批判したが、称賛の声は意外なところからも上がった。
「悔しいな。この人事は野田政権でやりたかったもの。国会質疑を通じて法制局からポジティブな新解釈をできる限り引き出していこう」「過去の法制局解釈の積み重ねによってガラパゴス化したわが国の安全保障法制が、ついに国際的常識と合致したものとなる」
野田佳彦内閣で首相補佐官、防衛副大臣を務めた民主党の長島昭久は、野党議員でありながら小松の起用を短文投稿サイトのツイッターでこう絶賛し、「画期的な人事」と評価した。
長島は昨年、PKOなど自衛隊が海外で活動する際の「駆けつけ警護」を可能にしようと内閣法制局とかけあってきた。だが、法制局の高い壁を突き崩せず、ツイッターで「内閣法制局長官に阻まれた」と告白している。前長官、山本庸幸のことだ。
国民のためにこそ
「内閣法制局は自衛隊の行動に関することに特に厳しい目を向ける」
政府関係者はこう指摘する。内閣法制局と、積極的に自衛隊を海外に派遣して国際貢献につなげたい外務省とは“犬猿の仲”ともいわれる。歴代長官が積み重ねてきた従来の憲法解釈を墨守する立場と、安全保障環境の変化に合わせて日本の生き残りを最優先する側との相克の歴史は長い。
小松は、国際法には詳しいものの、内閣法制局に勤めた経験がない。長官としての手腕は未知数だ。法制局が構築してきた論理をどう打破するのか、逆にのみ込まれることはないか…。
小松を知る法制局官僚からは「首相の意向とはいえ、長官はつらい立場に立たされている」と気遣う声も聞かれるが、第1次安倍内閣で事務の官房副長官を務めた的場順三はこう語る。
「役人のメンツとは、むしろ時代を先取りし、うまく時代に適応していくことだ。国家国民のためにならないことを放置しておくなら、『法制局のメンツなんてナンボのもんじゃ』ということになる」
憲法も政策も、国民のためになってこそ意味があるはずだ。(敬称略)
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この企画は阿比留瑠比、峯匡孝、千葉倫之、豊田真由美、是永桂一、石鍋圭が担当しました。
平成24年12月26日夜、第96代首相として政権に返り咲いた安倍晋三は、首相官邸で閣僚らと記念撮影に臨んだ。フラッシュがやまない中、最前列中央の安倍はあえて硬い表情でカメラに納まり、他の閣僚も緊張した面持ちを見せた。
最後列5段目には、加藤勝信、世耕弘成ら3官房副長官に並び内閣法制局長官(当時)の山本庸幸(現最高裁判事)の姿があった。
法制局長官は、特別職の国家公務員。内閣発足時に官房長官が閣僚名簿を読み上げる際に法制局長官の名も登場する。閣議に陪席し、法案の説明役を担う。
月額給与は今年4月時点で143万4千円(東日本大震災後の支給減額後は114万7200円)で、官房副長官と同格だ。
ただ、法制局長官は、閣僚や副大臣のような天皇が認証するいわゆる「認証官」ではない。にもかかわらず、閣僚級の「特権」があるためか、「彼らは自分たちが偉いと勘違いしている」(元政府高官)とも揶揄(やゆ)される。
「首相より官僚の方が上なのかなあ。官僚トップの方が大事だと思っているのかもしれないな」
現在の首相公邸を整備する期間中、東京都品川区の旧内閣法制局長官公邸を仮首相公邸にしていた当時の首相、小泉純一郎は、長官公邸の居心地の良さをこう皮肉ってみせた。
長官公邸は閑静な高級住宅地にあり、地上2階地下1階建て、敷地面積は1465平方メートル、延べ床面積は1554平方メートル。隣に高層ビルがあり、老朽化していた旧首相公邸との差は歴然だった。
平成23年12月、内閣法制次長だった山本は、内閣法制局長官に就任した。当時は野田佳彦内閣だった。
山本は通産省(現経済産業省)出身で、元年6月に参事官として法制局に出向してきた。以降、第1部から4部の全部長、内閣法制次長を務めた。
山本が野田内閣で抵抗をみせたのは前回触れた。安倍内閣に対しても、長官を退官後に激しく攻撃した。
「解釈の変更で対応するのは非常に難しい。実現するためには憲法改正した方が適切だ」
山本は8月20日、最高裁判事の就任記者会見で、こう主張した。さらに「法規範が現状に合わなくなったのであれば、法規範を改正するのがクリアな解決だ」とも語った。最高裁判事が職務上判断を求められていない政治課題に見解を表明するのは異例で、司法による「越権行為」といえる。
官房長官の菅義偉(すが・よしひで)はすかさず翌21日の記者会見で「政府として憲法解釈を行う必要がある場合は、内閣法制局の法律上の専門的知見などを活用しながら第一義的には内閣が行うものだ」と強調、山本氏の発言を「非常に違和感がある」とも述べて牽制(けんせい)した。
もっとも、山本の「越権行為」は歴代長官の発言を繰り返しただけにすぎない。しかし、集団的自衛権の行使容認を目指す安倍にとって、法制局は硬直しきった「伏魔殿」にしか映らなかった。
法制局の慣例でいくと、山本の次は、法制次長の横畠裕介が就くはずだった。安倍は慣例を覆した。横畠は続投。その上で、法務、財務、総務、経産の4省出身者でもなく内閣法制局の経験も全くない、外務省で国際法畑を歩んだ駐仏大使の小松一郎を据えた。
長官に就任した小松は、11月1日の衆院国家安全保障特別委員会で、内閣法制局が憲法解釈を変えた事例があることを紹介した。
「当初、『自衛官は文民である』という解釈だったが、シビリアンコントロール(文民統制)の観点から『現職の自衛官は文民ではない』と政府解釈が変わった例がある」
かたくななまでに法体系の継続性と一体性を重視する法制局の別の姿を示したものであり、小松は国内外の社会情勢に応じた解釈変更は妥当性・合理性を持つという意味で取り上げた。
元長官の阪田雅裕は「法治国家で政策が時々刻々と変わるのは当然だ。法律が時代遅れになることは山のようにある」と認める。しかし、同時にこうも訴える。
「われわれは憲法にしがみつくウジ虫だといわれてきたが、好きでしがみついてきたわけではない。法的な手当てのために立法府がある。時代の変化で政府が適当に法解釈をしていいなら国会なんていらない。堂々と憲法を改正すべきだ」
集団的自衛権に関する「権利は有するが行使はできない」という従来の解釈はいびつだ。法制局はこれに拘泥し続けてきた。
「長官一人を代えたところで解釈を変えられるという性質ではない」
阪田は、小松を起用した安倍の人事について、こうも付け加えた。法制局出向経験者の多くが、そう考えているようだ。(敬称略)